夜、病院の中は静寂に包まれていた。健司は病室のベッドの横に座り、テーブルに並べられた食事を見つめながら、食事に一切手をつけない瑛介を見てため息をついた。「社長、一日中何も食べていないじゃないですか。少しは......」しかし、瑛介はイヤホンを耳に付けたまま、ベッドの背もたれにもたれかかり、スマホの画面を静かに見つめているだけだった。健司がふとスマホの画面を覗くと、そこには2人の小さな子どもがライブ配信をしている様子が映っていた。健司は呆れてしまった。食事をする気もなく治療も拒否しているのに、2人の子どものライブを見続けている瑛介。彼に何と言えば良いのか分からず、健司は無表情のまま画面を見つめた。ふと、「もし自分が別アカウントを作って、ライブ配信中の子どもたちにメッセージを送ったらどうだろう?」と考えた。例えば、「友達が君たちの大ファンだけど、病気がひどくて食事も治療も拒否している。君たちが励ましてくれたら聞いてくれるかも」と伝えるのはどうだろうか?これなら、子どもたちが画面越しに「ご飯を食べて元気になって」と言ってくれるかもしれない。そのアイデアを思いつくと、健司はこっそりスマホを取り出し、操作を始めた。仕事が忙しく、これまでTikTokを使ったことがなかった彼は、アカウントを登録し、ようやくライブ配信に入ることができた。ライブ配信に入ると、すぐに瑛介の冷たい視線が彼に向けられた。「何をしている?」「別に」健司は咳払いをしながら、少し動揺した声で答えた。「社長がずっと見ているので、僕も見てみようと思いまして」瑛介はしばらく冷たい目で彼を見つめたが、何も言わず視線を戻した。ほっと息をついた健司は、再びメッセージを打ち始めた。「こんばんは、本当に可愛いね」彼はもっと長いメッセージを打とうとしたが、指が間違えてボタンを押してしまい、途中の文章が送信されてしまった。新しいアカウントだったため、送信と同時に瑛介の目が鋭く彼に向けられた。「お前、何をしている?」「いや、子供たちを褒めたかっただけです」しかし、瑛介は彼が何か企んでいることに気づいているようだった。「余計なことはするな」と警告した。健司は口を閉ざしたが、瑛介が再び視線を戻すと、すぐにスマホを手に取りメッセージを続けた。
「早く元気になってね」ライブ配信の中でみんなは優しいコメントを送っていた。その中で陽平はふとメッセージを見て、興味津々でカメラに顔を近づけた。その瞬間、小さくて精緻な顔が画面いっぱいに映し出された。「うわっ!」スマホを握っていた健司は、思わず驚きの声を上げた。彼の目はその画面に釘付けになった。まさかと思いつつ、彼はこの小さな顔が瑛介の縮小版に見えて仕方がなかった。それから、健司は何度も視線を瑛介とスマホの画面の間で行き来させた。瑛介を見て、画面を見て――見れば見るほど奇妙に思えてきた。最終的には言葉も出なくなり、ただその場に固まった。これまでも瑛介がこの2人の子どものライブ配信をよく見ているのは知っていたし、その子どもたちと瑛介の雰囲気が少し似ているとは感じていた。だが、今回のようにカメラに顔を近づけた陽平の精緻な顔立ち――幼さの中にすでに冷静で落ち着いた雰囲気が漂っており、その気質が瑛介とあまりにも似ていると感じた。目の前の陽平の顔は近づいて見るほど、子ども特有の細やかな肌の質感が感じられる。「こんばんは、高山さんですね」陽平の声が画面から聞こえ、健司は名前を呼ばれたことに気づき、すぐに反応して答えた。「健司おじさんでいいよ。あと、僕の友達は宮崎なので、宮崎おじさんか宮崎お兄さんって呼んで欲しいな」健司は「お兄さん」と呼ぶほうが若く聞こえるから、瑛介が喜ぶかもしれないと考えていた。しかし、メッセージを送信してから、「宮崎お兄さん」のニュアンスが少しおかしいことに気づき、慌てて付け加えた。「やっぱり宮崎おじさんと呼んでもらえたら!」瑛介もこのメッセージを読んで黙っていた。健司はへらへら笑うしかなかった。一方、画面の向こうで陽平は真剣な顔で話し始めた。「宮崎おじさん、こんばんは。僕たちのライブを見てくれてありがとうございます。病気だと聞きましたが、どんな病気かは分からないけど、病気になったらちゃんとお医者さんに診てもらって、薬も飲まないといけませんよ。そうしないと治りませんから」幼いながらも、陽平の話し方はとても理解しやすくて、ポイントを的確に押さえていた。健司は思わず画面に向かって親指を立てた。「素晴らしい」続けて、陽平はこう言った。「宮崎おじさん、健康でいて
効果あり!健司は瑛介の目に浮かんだその微かな暖かさを見た瞬間、自分の努力が報われたように感じた。彼は大喜びで尋ねた。「社長、それじゃあ何か食べませんか?」ところが、瑛介の次の一言は、まるで冷水を浴びせられたような気分にさせた。「俺が食べたいと言ったか?余計なことをする気か?」健司はその場で固まってしまった。「どうしてですか?さっきまで......」先ほどの柔らかさを帯びていた瑛介の目は、すっかり冷たくなり、彼特有の近寄りがたい雰囲気を取り戻していた。瑛介はもはや健司に構うこともせず、代わりに先ほど子どもたちが言っていた「元気になってほしい」という言葉を頭の中で思い返していた。不思議なことに、画面越しの見知らぬ子どもたちの言葉に癒やされている自分がいた。瑛介はスマホを操作し、再び子どもたちにギフトを贈った。「えっ?」ひなのはスマホ画面に表示されたギフトメッセージを見て、大きな瞳を輝かせながら甘い声で言った。「寂しい夜さん、こんばんは!ギフトありがとうございます!」彼女のこの柔らかい声と仕草は、飛行機で会った時と全く同じだった。ただし、この「寂しい夜さん」が誰なのか、彼女は知らない。飛行機で会った時も、ライブ配信で話している今も、彼女は目の前の人物が同一人物だとは気づいていない。隣の陽平は頭を掻きながら、再び寂しい夜さんからのギフトが贈られていることに気づき、少し困った表情を浮かべた。彼が何度お願いしても、寂しい夜というユーザーは次々とギフトを贈り続けるのだ。「本当にお金持ちで太っ腹だな」これが陽平が寂しい夜に持っている唯一の印象だった。彼は妹と一緒にお礼を言った。「ギフトありがとうございます」そのやり取りをライブ配信で見ていた健司は、次々と画面に流れるカラフルなギフトメッセージを見てようやく気づいた。「この寂しい夜という人は、もしかして社長ですよね?」そう言いながら、心の中で驚愕していた。いったいどれだけのお金を使ったんだ?!自分の感覚では大金だが、瑛介にとっては小銭に過ぎない。彼が気にするわけもないが、それよりもまず瑛介の体を心配するべきだと思い直した。そのため、彼は答えを待たずに話題を切り替えた。「社長、本当に何も食べたくないんですか?少しでも。
「霧島さん、お電話が鳴っています。残りの片付けは私がやりますので」「お願いするわ」弥生は仕方なくスマホを手に取り、外に出て電話を取った。「もしもし?」「霧島さん」聞き慣れた声に弥生は一瞬驚いた。「はい?」どうしてまた彼から電話が?「霧島さん、申し訳ありません。こんな遅くにお邪魔してしまって」弥生は少し唇を引き結び、淡々とした声で答えた。「何かあったの?」話し始めようとした健司だったが、瑛介が顎を軽くしゃくり、スピーカーモードにするよう示した。その視線に押され、健司は渋々スピーカーモードに切り替え、口ごもりながら話した。「社長がまだ食事を取ろうとしなくて、それでお願いが......」「ちょっと待って」彼の話が終わる前に、弥生がすぐさま遮った。「瑛介はもう大人でしょう。食べるかどうか、自分で判断できると思うわよ。もし食べたくないなら、それは彼が自分の体を把握しているから」そう言うと、弥生は電話を切ってしまった。スマホを握りしめたまま、彼は顔を上げる勇気もなく、自分の判断の甘さを後悔した。どうして瑛介の言う通りスピーカーモードにしてしまったのか。案の定、顔を上げなくても瑛介から漂う冷たさが肌で感じられた。「社長......」「出て行け」健司はそれ以上何も言えず、スマホを握ったまま黙って立ち去った。瑛介は陰鬱な表情のままベッドに座り、もはやライブ配信を見る気にもなれず、スマホを操作して配信を終了した。彼がライブ配信を閉じるのが少し早すぎたため、その後に聞こえてきた女性の柔らかな声を耳にすることはなかった。「今日の配信はここまでね」もし瑛介がもう少しだけ待っていれば、その声が弥生のものであることに気づけただろう。「はい、それでは今日の配信は終わりです。またね」配信を終了すると、弥生はスマホをしまった。「宿題、もう終わった?」「うん、終わったよ、ママ」ひなのは何かに気づいたように母親の肩に抱きつきながら尋ねた。「ママ、さっき誰かから電話あったの?」弥生は少し間を置いてから頷いた。「ええ」「ママ、それって弘次おじさんから?」「違うわ」弥生は少し考え、二人の子どもたちに説明することにした。「仕事のことよ。お客さんの一人がご飯を食べないと
早川?この人も早川にいると知った瞬間、弥生は一瞬動きを止めた。数秒後、彼女は思わずつぶやいた。「最近、偶然が多すぎるわね......」ここに来る前、弥生は早川が静かな街だと思っていた。ここで会社を立ち上げれば、昔の知り合いに頻繁に会うこともないだろうと考えていたのだ。しかし、現実は違った。ある人の顔が頭をよぎり、弥生はスマホを置いた。まあ、会っても大丈夫じゃないの?早川はそう広い街ではないし、彼女がこの街で事業をする以上、避けようがない。ましてや、彼が自分の会社に投資するとなれば、もう関係を切ることはできない。ただ、ビジネスの協力相手と割り切ればいいだけのことだ。そう思おうとしたものの、その夜、弥生はなかなか眠れなかった。ベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、医師や健司が言っていた言葉が頭をよぎる。彼は深刻な胃病を抱え、薬を飲まずに放置している。なんて馬鹿げているんだろう。大人でありながら、ここまで自分の体を軽視するのはありえない。そんな状態で放置し続ければ、どうなるかくらい彼自身が一番わかっているはずなのに。だが、彼がそれでも放置しているということは、彼自身がその結果を受け入れる覚悟があるということだ。それなら、私が口を挟む必要なんてない。全く必要ない。もし誰かが彼を気にかけるとすれば、それは奈々の役目だろう。そう考えると、弥生はまた寝返りを打った。どうして健司は奈々に電話しないの?わざわざ私に?そんな思考が頭を巡り、さらに眠れなくなった。翌朝、アラームが鳴り響いた時、弥生はようやく体を起こした。強い意志力がなければ、ベッドから出ることさえ難しかっただろう。起きてからはいつも通り、子どもたちに朝食を準備し、一緒に食事をした後で学校に送る準備をした。彼女の元気がないのに気づいたお手伝いさんが心配そうに声をかけた。「霧島さん、昨晩よく眠れなかったんですか?少しお疲れのように見えますよ」その言葉に、弥生は苦笑しながら頷いた。「ええ、ちょっと眠れなくて」「そうでしたか」お手伝いさんはすぐに気を利かせて提案した。「少しお休みされてはいかがですか?子どもたちの送迎は私が代わりますから」その時、突然玄関のチャイムが鳴った。「私が行きますね」お手伝いさん
しかし、白い車がスピードを出し過ぎたため、うっかり黒い車の後部に接触してしまった。ほんの小さな擦れだったが、弥生はトラブルが始まるだろうと直感した。案の定、車が接触すると、両方の運転手とも車から降りてきて、駐車スペースの奪い合いや接触について言い争いを始めた。こういった光景は見慣れている弥生は、肩をすくめてその場を離れ、ビルの中に入った。エレベーターを待つ間、普段なら一人だけのことが多いが、今日は彼女のほかに何人かがエレベーター前で待っていた。その中の一人、眼鏡をかけた清潔感のある若い男性が、彼女の美しい外見と独特の雰囲気に惹かれたのか、思わず声をかけた。「こんにちは。ここに面接を受けに来たんですか?」その言葉を聞いて、弥生は一瞬驚いた。「えっ?私に話しかけていますか?」「そうです」男性は頷き、爽やかな笑顔で続けた。「とても綺麗ですね」こんな褒め言葉を日本で聞いたのは初めてだった。だが、彼の言葉にはいやらしさは全くなく、純粋で真摯なものだったため、弥生も思わず微笑みながら答えた。「ありがとうございます。面接に来ていたのですか?」「そうなんです」その話題になると、男性の目が輝いた。「この会社の求人票を見ました。宮崎グループが投資している小さな会社らしいですね。僕、以前宮崎グループに応募したけど落ちてしまって……それなら、この会社でもいいかなと思って来ました。宮崎グループが選んだ会社なら、きっと悪くないはずですから」その話を聞いて、弥生はようやく理解した。下の駐車場やエレベーターで人が多かった理由はこれだったのだ。彼らはみんな、昨日出された求人情報を見て面接に来たのだ。求人に関しては現在、博紀が担当している。昨日、彼に一任したばかりだが、すでに午後か夜には求人情報を公開したようだ。「私たちも面接に来ました!」話しを聞いていた他の数人が笑顔で話に加わった。「すみません、どんな職種を希望してるんですか?この会社、まだ小さいみたいで、ほとんどのポジションが空いてるようですね」一度会話が始まると、だんだん盛り上がり、みんなが次々と話し始めた。弥生は彼らの会話を横で静かに聞いていたが、エレベーターが目的の階に着くと、全員一緒に降りた。オフィスフロアに出た彼らは面接会場を探してあ
この点に関しては、弥生も否定のしようがなかった。そのため、頭の中に、今も病院のベッドに横たわる彼の姿が浮かんできた。しかし、その考えはすぐさま振り払った。もう彼のことを考えてはいけない。5年間も忘れる努力をしてきたのに、帰国した途端、また心が乱されるなんて許されない。彼女には彼女の人生のペースがあるのだから。その時、スマホが鳴った。画面を見ると、表示されていた名前は「駿人」だった。「福原さん?」「福原さん?彼がどうして社長に電話を?」「まさか、彼も......」「そこまではないと思う。電話に出るわ」博紀は頷き、気を利かせて部屋を出た。「もしもし、福原さん?」あの日、駿人の会社を後にしてから、弥生は彼と話していなかった。彼が自分の会社に投資しないと知った後、もうこれ以上時間を無駄にするつもりはなかったのだ。それでも早川での事業を成功させるため、駿人と無駄な争いを避けるべきだと思っていた。「やあ、最近会社はどう?先日のこと、すまなかったたね」「いえ、とんでもないです」「実は、僕の会社から直接投資はできないが、必要ならうちのスタッフを使って広告を作ることができるよ。どう?」益田グループの人材を使って広告を出すのは、確かに効果がありそうだった。弥生は感謝の意を込めて答えた。「お気遣いありがとうございます。しかし、もう問題は解決しました」「解決した?」彼女の会社がすでに投資を受けたと知り、駿人は驚いた。「どこの会社?」少し考えた後、弥生は正直に答えることにした。「宮崎グループです」「......あいつ、もう少し我慢すると思ってたけど、意外と早く降参したんだな」駿人のつぶやきに、弥生は反応しなかった。駿人はそのまま話を続けた。「霧島さんのことを追いかけるために、本当に手を尽くしたんだね」弥生は言葉に詰まったが、すぐに反論した。「福原さん。私たちはただのビジネスパートナーです。もう少し慎重に話していただけたらと思います」「本当にそれだけか?彼のことが嫌いなのか?」そう言ったかと思うと、彼女の返事を待たずに駿人は軽い調子で続けた。「もし彼がダメなら、僕はどう?」「......え?」弥生は一瞬驚いた。「冗談だよ。あいつの女に手を出すなんて、僕
「本当に申し訳ありません。社長が目を覚ましたら、ちゃんと説明します」健司はそう言ったが、医師は瑛介の自分の体を大事しない態度に怒りを覚え、つい口にした。「ちゃんと自分の体を大事にしないと、本当に死ぬかもしれもせんよ」その厳しい言葉に、健司は何も言い返せず、ただ小さく頷き続けるしかなかった。隣で見ていた弥生は、医師の反応から、瑛介の状態がかなり深刻であることを悟った。医師はさらに何かを健司に伝えた後、苛立った様子で病室を去った。健司はまるで捨てられた子犬のように肩を落とし、壁にもたれて項垂れていた。弥生はしばらくその場で立ち尽くしていたが、やがて彼のもとへ歩み寄った。気配に気づいた健司が顔を上げると、弥生は彼が目を赤くしているのに気づいた。医師の厳しい言葉に涙を浮かべたのか、それとも瑛介への心配からなのかは分からなかった。彼は気まずそうに顔を背けたが、弥生は黙って立ち、彼が気持ちを落ち着けるのを待った。数分後、健司はようやく振り向き、彼女に向き直った。「すみませんでした、霧島さん」彼が普段の表情を取り戻したのを見て、弥生は軽く頷き、彼の肩を軽く叩いて慰めるように言った。「彼はどこにいるの?」「先ほど救急処置が終わったと言われました」その言葉を聞いて、弥生はしばらく黙り込んだ。どう答えるべきか分からなかったのだ。数秒後、彼女はようやく言った。「一緒に行こうか」「分かりました」病室へ向かう道中、健司は彼女に何度も感謝の言葉を口にした。「本当にありがとうございます。来てくれなかったら、僕はどうすればいいか分かりませんでした」その言葉に、弥生は我慢できず口を開いた。「どうして私にだけ電話をかけてきたの?彼の家族は?」彼女は本当は「奈々」の名前を挙げたかったが、それを避けて曖昧に表現した。健司は気に留める様子もなく答えた。「以前も同じようなことがありました。でも、社長が家族の言うことを聞いていれば、こんな状態になるはずはありませんよ」「家族の言葉も聞かないの?」「誰の言葉も聞きません。それが一番困るんですよ」弥生は心の中で首をかしげた。あれだけ奈々を大事にしていたのに、彼女の言葉すら聞かないの?もし彼が奈々の言葉すら聞かないのなら、私の言葉なんて、なお
瑛介が返事をしないまま沈黙していると、綾人が再び口を開いた。「弥生は、まだ意識が戻ってないんだろ?」その言葉に、ようやく瑛介は反応し、冷たく答えた。「問題ない。あの二人は頭がいいから」彼がその場にいなくても、あの二人ならきっと対応できる。特に陽平なら、母親の面倒をしっかり見られるはずだ。「とはいえ、あの子たちはまだ若いんだ」綾人は言った。「もし何かあったら......」「僕がここで見てるから」瑛介が鋭く遮った。「......分かったよ」「ここにはもうお前は必要ない。帰っていい」綾人は、今の瑛介の態度を見て、これ以上話をしても無駄だと感じた。それでも彼は少しだけ考えた末、もうそれ以上何も言わずに、廊下のベンチに向かい、静かに腰を下ろした。瑛介は病室の外で壁にもたれ、スマホを取り出して健司に電話をかけた。通話が終わり、スマホをポケットにしまおうとした瞬間、何かを思い出して顔色が変わった。すぐさま振り返り、病室のドアを勢いよく開けた。彼が目にしたのは、二人の子供が寄り添い合いながら、弥生のスマホを手にして電話をかけようとしている姿だった。音に気づいた二人は、同時に顔を上げて瑛介の方を見た。その姿を見たひなのは、すぐに嫌そうな顔になり、唇を尖らせて彼に近づき、また追い出そうとした。でも、瑛介はすぐに大股で近づき、二人の目の前でしゃがみ込んだ。「スマホ、何に使おうとしてた?」陽平は唇をきゅっと引き結び、何も答えなかった。代わりにひなのが腰に手を当て、不満げに言った。「おじさん、ノックもしないで勝手に入ってきて!邪魔しないでよ!」瑛介は今、それに構っている余裕はなかった。彼の注意は、陽平の手にあるスマホに完全に向いていた。彼は手を差し出して言った。「スマホをおじさんに貸してくれるか?」陽平はスマホを後ろに隠しながら言った。「ママのスマホだ。おじさんのじゃない」「もちろん、それは分かってる」瑛介はにこりと笑って言った。「でもママは今寝てるだろ?一応おじさんが預かっておいた方がいい。もし落としたら壊れるかもしれないからね」ひなのがすかさず反論した。「そんなことないもん!私もお兄ちゃんも、スマホ一回も落としたことない!」「そうなんだ」瑛介はひなの
瑛介は聡のことを簡単に許すつもりはなかった。その言い方に滲み出る怒りを、綾人も敏感に察したらしく、わずかに苦笑を浮かべながら口を開いた。「今夜のことは、正直ここまでになるとは思わなかった。でももうこうなった以上......弥生の様子は?」瑛介は唇を引き結び、返事をしなかった。明らかに、綾人を無視するつもりだった。綾人もそれを察して、それ以上は何も言わず、静かに椅子に座った。しばらく沈黙が続いた後、瑛介が不意に言った。「お前、ここにいなくていい」「黙ってここにいるだけでもダメか?」「ダメだ」「......それはあんまりじゃないか」「僕はあんまりな人間だ」そう言われてしまっては、綾人にもどうしようもなかった。だが彼はそれでも席を立たず、ただ座っていた。しばらくして、まるで何かに触発されたかのように、瑛介が顔をこちらに向けた。鋭く暗い目で綾人を睨みつけ、低く言った。「僕に手を出させたいのか?」もしここに子どもたちがいなければ、瑛介はとっくに彼の襟元をつかんで、別の場所に連れ出していただろう。「そうか?なら試してみろよ」「僕がやらないとでも思ってるのか?」と、彼は静かな口調に鋭い響きを込めて言った。ちょうどその時、救急室のランプがふっと消え、に扉がゆっくりと開いた。さっきまで怒気に満ちていた瑛介は表情を一変させて立ち上がり、ドアの方へ向かった。一緒にいたひなのと陽平も、すぐに立ち上がって、駆けて行った。綾人もそれを見て、立ち上がり、彼らの後を追った。「先生、どうですか?」瑛介の声は、さっきまでの冷たさとは違い、少しだけ柔らかくなっていた。だが、抑えた低音が静まり返った廊下に響くと、どこかしら掠れて聞こえた。医師は数人を見渡した後、こう尋ねた。「どなたが霧島さんのご家族ですか?」「僕です」瑛介が答えた。「そうですか。患者さんは頭部に外傷を負っていますが、今のところ大きな問題はなさそうです。ただ、今後さらに検査が必要です」「......さらなる検査?」その言葉を聞いた瞬間、瑛介の目つきは一段と鋭さを増し、喉の奥で「聡」という名前を噛み砕くような、激しい怒りがこみ上げてきた。「今の状態は?」「現在は安定しています。ただ、頭部を傷めているため、しば
正直なところ、それで行けるのだ。なぜなら、ひなのは瑛介の言葉を聞いて手を上げてみたところ、確かに脚よりも叩きやすかったからだ。さっき瑛介が椅子に座っていたときは、彼の脚に手が届くように一生懸命つま先立ちしないといけなかった。でも今は、彼が自ら頭を下げているから、まったく力を使わなくても簡単に手が届く。ただ、目の前にいる瑛介の顔は、近くで見ると目がとても深くて黒く、表情も鋭くて、少し怖い。ひなのはその顔を見て、急に手を出すのが怖くなった。おそるおそる彼の顔を見たあと、一歩後ずさった。その小さな仕草も、瑛介にははっきり見えていた。「どうした?」ひなのは唇を尖らせて言った。「もし、おじさんが叩き返してきたらどうするの?」手も大きいし、もし本気で叩かれたりしたら、自分なんてきっと一発でペチャンコにされちゃう——そんなことを考えれば考えるほど、ひなのは怖くなってしまい、くるりと背を向けるなり一目散にお兄ちゃんのところへ駆け出していった。瑛介は完全に顔を叩かれる覚悟までしていたのに、まさか彼女が急に逃げ出すとは思ってもいなかった。ホッとした気持ちとともに、なぜか少しばかりのがっかり感がこみ上げてくる。娘に頬を叩かれるって、どんな感じなんだろう?そんなことを考える自分に、思わず苦笑してしまう。いやいや、何を考えてるんだ。叩かれて喜ぶなんて、自分はマゾかとさえ思い、頭を振って気を引き締めた。雑念を払って、救急室の扉を真剣に見守ることに集中することにした。弥生は無事でさえいてくれたら、それだけで十分だった。一方、ひなのが陽平のもとへ駆け戻ると、陽平は大人のように彼女を椅子に座らせ、優しく涙を拭ってあげた。その後、彼もつい瑛介の方を一瞥した。静かに目を伏せている彼の姿は、あれほど背が高いのに、どこかひどく寂しげに見えた。陽平は唇をきゅっと結び、小声で言った。「ひなの、これからはあのおじさんに近づいちゃだめだよ」以前は、寂しい夜さんをパパにしたい!とまで言っていたひなのだったが、今はすっかり気持ちが変わったようで、力強くうなずいた。「うんうん、お兄ちゃんの言うこと聞く!」陽平は、ようやく妹がもうあの人をパパだなんて言い出さないことに安心した。これなら、ママも安心してくれるはずだ
さらに、泣きすぎて目を真っ赤にした二人の子供もいた。それを見て、警察官たちは事態を即座に理解し、真剣な表情で言った。「こちらへどうぞ、ご案内しますので」その後、警察は自ら先導して道を開け、近隣の病院へ事前連絡までしてくれた。パトカーの支援を受けたことで、ようやく車は予定より早く病院へ到着した。車が止まると同時に、瑛介は弥生を抱きかかえて一目散に病院内へ駆け込んだ。二人の小さな子供も、必死について走ってきた。その後の処置の末、弥生はようやく救急室へと運ばれた。救急室には家族であっても入れない。瑛介は二人の子供と一緒に、外で待つしかなかった。今は周囲に誰もおらず、救急室の前の廊下も静まり返っている。瑛介は陽平とひなのを自分のそばに座らせた。「しばらくかかるかもしれない。ここで待とう」陽平はとても聞き分けがよく、何も言わず、ただ静かにうなずいた。けれど、瑛介のすぐそばには座らず、少し離れた場所に腰を下ろした。彼が何を思っているのか、瑛介には分かっていた。しかし、その位置からなら様子を見ていられるし、安全も確保できるので、強くは言わなかった。一方で、ひなのは自ら彼のもとへ歩み寄ってきた。瑛介は一瞬驚いた。もしかして許してくれたのかと思ったが、彼女は彼の前に来るや否や、小さな拳で彼の太ももをポカポカと叩き始めた。「ひなのはあなたが大嫌い!」ぷくぷくした小さな手が絶え間なく彼の脚を叩きつづけた。泣きじゃくりながら怒るひなのは、まるで花がしおれたような子猫を思わせ、瑛介の胸をきゅっと締めつけた。彼は黙ったまま動かず、叩かせるがままにしていた。やがて、ひなのが疲れてきたのを見て、瑛介はそっと彼女の手を握った。「もう、疲れたろう?ね、もうやめよう」ひなのは力いっぱい手を引こうとしたが、離せずにぷくっとした声で怒った。「放してよ!おじさん大嫌いなんだから!」瑛介は彼女の顔を見て、困ったように言った。「じゃあ、おじさんと約束しよう。もう叩かないって言ってくれたら、すぐ放すよ」その言葉を聞いて、ひなのはわあっと再び泣き出し、ぽろぽろと涙を流した。「おじさんは悪い人!ママをこんな目にあわせたくせに、ひなのに叩かせないなんて!」その姿に、瑛介はまたもや言葉を失った。か
陽平はもうそうするしかなかった「うん、任せて」「よし、それじゃあ君とひなのでママを頼むね。病院に連れて行くから」「うん」瑛介は陽平の返事を聞いてから、視線を弥生の顔へと戻した。その額の血は、彼女の白い肌に際立ち、ぞっとするほど鮮やかだった。瑛介は慎重に彼女をシートに寝かせ、座席の位置を調整した。そして、二人の子どもを左右に座らせ、走行中に彼女がずれ落ちないよう、しっかり支えるよう指示した。すべての準備が整った後、瑛介は車から降りた。ドアが閉まった音と同時に、陽平は目尻の涙を拭い、弥生の頭を優しく支えながら、小さく囁いた。「ママ、大丈夫だから。絶対に助かるよ」ひなのも泣き疲れていた。先ほどまでキラキラしていた瞳は、今や涙でいっぱいになり、大粒の涙がポロポロと弥生の足元にこぼれ落ちていった。「ひなの、もう泣かないで」隣から陽平の声が聞こえた。その声に、ひなのは涙に濡れた目を上げた。「でも......ママは死んじゃうの......?」その言葉に、陽平は強く反応した。彼は驚いて妹の顔を見つめ、目つきが変わった。「そんなこと言っちゃダメだ!」ひなのはビクッと震えて、しゃくりあげた。「でも......」「ママはちょっとおでこをケガしただけ!絶対に死なないから!」車は大通りに入った。瑛介の運転はスピードこそ速かったが、ハンドルさばきは安定していた。バックミラー越しに見える二人の子どもが、必死に弥生を守っているのが分かり、その声が耳に届くたび、彼の胸が裂けるように痛んだ。彼は眉をひそめ、重い口調で言った。「陽平、ひなの......絶対に君たちのママを助ける。信じてくれ」その最後の「信じてくれ」は、絞り出すような声だった。陽平は黙ったまま、弥生の血の滲んだ額を見下ろし、顔をしかめていた。その時、ひなのがぽつりと不満げに言った。「ひなのはおじさんのことが嫌い」その言葉に、瑛介のハンドルを握る手が一瞬止まった。しばらくの沈黙の後、彼は苦笑しながら言った。「嫌われてもいい。まずは病院に行こう」ママがこんな状態なのに、娘に好かれる資格なんてあるはずがない。すぐそばにいたのに、大切な人を守ることができなかった。娘まで危険な目に遭わせてしまった。その罪悪感は、今まで
奈々は自分の下唇を噛みしめ、何か言いたげに口を開いた。「でも......ここまで騒ぎになったんだし、私にも責任があると思うの。私も一緒に行って、弥生の様子を見てきた方が......」「確かに、今回の件は僕たちにも責任がある」綾人はそう言って彼女の言葉を遮った。「でも今の瑛介は、おそらく怒りで冷静じゃない。だから、君はついてこない方がいい」そう言い終えると、綾人は奈々をじっと見つめた。その視線は、まるで彼女の中身まで見抜いたかのような鋭さだった。一瞬で、奈々は何も言えなくなった。「......そう、分かったわ。でも、後で何かあったら必ず私に連絡してね。五年間会っていなかったとはいえ、私はやっぱり弥生のことが心配なの」綾人は軽くうなずき、それ以上何も言わずに携帯を手にしてその場を離れた。彼が完全に視界から消えたのを確認した後、奈々は素早くその場で向きを変え、聡のもとへと駆け寄って、彼を助け起こした。「さあ、早く立って」奈々が突然駆け寄ってきたことに、聡は驚きつつも喜びを隠せなかった。「奈々、ごめんない......」「立ち上がって話しましょう」奈々の支えを受けて、聡はようやくゆっくりと立ち上がることができた。彼が完全に立ち上がったのを確認してから、奈々は彼の様子を気遣うように尋ねた。「体は大丈夫?」聡は首を振ったが、何も言わず、ただ呆然と彼女を見つめていた。「そんなふうに見つめないでよ。さっき私が言ったことは、全部君のためだったのよ」「俺のため?」「そうよ。よく考えてみて。今夜君があんな場で暴力を振るったら、周りの人たちは君をどう見ると思う?そんな中で私が君の味方についたら、どうなると思う?君の人柄が疑われて、私まで巻き添えになるかもしれないでしょ?だから私は、あえて君を叱るフリをしたの。がっかりしたフリをして、君が反省したように見せれば、誰も君を責めないわ」「反省したフリ?」その言葉に、聡は少し混乱した。彼は本当に反省していた。あの暴力的な行動を自分自身で恥じ、変わろうと思っていた。でも今の奈々の言葉は、それとは違う意図に聞こえる。......とはいえ、奈々は美しく、優しい。彼女がそんな策略を考えるような人だなんて、彼には到底信じられなかった。最後に、聡は素直
彼は弥生の額から血が流れていたのを見たような気がする。しかも、自分は子供を蹴ろうとした?自分はいったい、どうしてしまったのか?そんな思考が渦巻く中、綾人が彼の前に立ち、冷たい目で見下ろした。「聡、正気だったのか?何をしたか分かってるのか?」「俺は......」聡は否定しようとしたが、脳裏には弥生の額から血が滲むあの光景が蘇り、一言も出てこなかった。ようやく、自分の行動がどれだけ非常識だったかに気づいた。しかし......彼は奈々の方へ目を向けた。せめて彼女だけでも、自分の味方でいてくれないかと願っていた。そもそも、彼がこんなことをしたのはすべて奈々のためだったのだから。奈々の心臓はドクンドクンと高鳴り、心の奥では弥生に何かあればいいのにとすら思っていた。だが、綾人の言葉を聞いた後、その邪な思いを慌てて胸の奥にしまい込み、失望した表情で聡を見つめた。「手を出すなんて、君はやりすぎたわ」ここで奈々は一旦言葉を止め、また口を開いた。「それに、相手は子供よ。ほんの少しの思いやりもないの?」聡は頭が真っ白になり、しばらく口を開けたまま固まった。ようやく声を出せたのは数秒後だった。「だって......全部君のためだったんだ!」もし奈々のためじゃなかったら、自分がこんなにも取り乱すはずがない。弥生とその子供たちに、彼には何の恨みもなかった。彼が彼女たちを攻撃する理由なんて、どこにもなかったのだ。その言葉を聞いた奈々の表情は、さらに失望に満ちたものとなった。「感情に流されてやったことなら、まだしも少しは理解できたかもしれない。でも、『私のため』ですって?そんなこと、人前で言わないでよ!まるで私が子どもを傷つけさせたみたいじゃないの!」「今日まで、私はあの子供たちの存在すら知らなかった。弥生がここに来るなんて、私には想像もできなかったのよ」奈々がこれを言ったのには、明確な意図があった。綾人は瑛介の最も信頼する友人であり、もし聡の言葉が綾人に悪印象を与えたら、今後彼に協力を求めることが難しくなる。だから奈々は、普段どれだけ聡に助けられていても、今この場面では彼を切り捨てるしかなかった。どうせ聡は、彼女にとってはいつも都合のいい人でしかない。あとで少し優しくすれば、また戻ってくる。
そこで、まさかのことが起きた。弥生のそばを通り過ぎるとき、突然聡が何を思ったのか、彼女の腕を乱暴に掴んできたのだった。「ちょっと待って。本当に関係ないなら、子供を二人も連れてここに来るなんて、おかしいだろう!」弥生がもっとも嫌うのは、事実無根の中傷だった。そして今の聡の言葉は、まさに彼女に対する侮辱だった。弥生の目つきが一瞬で冷たくなり、皮肉な笑みを浮かべながら言った。「ねえ聡、瑛介と奈々っていつもカップルに見えるの?」ちょうど近づいてこようとしていた瑛介は、この言葉を耳にして足を止め、弥生の後頭部を鋭く見つめた。この問いかけは、一体どういう意味だ?「もちろんだ!」聡は歯を食いしばりながら怒鳴った。「奈々の方があんたなんかより何倍もいい女だ!瑛介にふさわしいのは、彼女しかいないんだよ!」「じゃあつまり、二人はカップルに見えるのに、あなたは奈々を今でも想ってるってことね?」聡は一瞬言葉に詰まり、予想外の展開に呆然とした。弥生はそんな彼を見つめ、嘲笑を浮かべながら口元を引き上げた。「あなたに私を非難する資格あると思うの?」その言葉の鋭さに、聡は言い返すこともできず、ただその場に立ち尽くしてしまった。ようやく我に返った時には、弥生はもう彼の手を振り払って前へ進んでいた。慌てた聡は奈々の方を振り向いて言った。「奈々......」だが、返ってきたのは、奈々のどこか責めるような、そして複雑な感情を秘めた視線だった。その視線に、聡のこころは一気に締めつけられた。まずい、弥生の言ったこと、奈々の心に残ってしまったかもしれない。もしかしたら、もう自分を近づけてくれなくなるかもしれない。そう思った瞬間、聡の中で沸き上がったのは、弥生への怒りだった。全部、彼女のせいだ。彼女が余計なことを言わなければ、奈々のそばにいられるチャンスはまだあったのに。「待て!」聡はそう叫ぶと、弥生に再び近づき、肩を掴もうとした。その瞬間、弥生に連れられていたひなのが、眉をひそめて前に飛び出し、両手を広げて彼を止めようとした。「ママにもう触らないで!」その顔は瑛介にとてもよく似ていて、それでいて弥生の面影も強く感じられる顔だった。その顔を見た瞬間、聡は怒りが爆発し、反射的に足を振り上げた。「どけ!ガキ
母の言う通りだった。あの言葉を口にしてから、瑛介は確かに彼女に対する警戒を解いた。かつて命を救ってくれた恩がある以上、奈々は依然として特別な存在だった。そして弥生は既に遠くへ行ってしまっていた。五年もの時間があった。その機会さえ掴めば、再び瑛介の傍に戻ることは決して不可能ではなかったのだ。ただ、まさか瑛介が五年の歳月を経ても、気持ちを変えることなく、彼女に対して終始友人として接し続けるとは思いもしなかった。一度でもその線を越えようとすると、彼は容赦なく拒絶してくる。だから奈々はいつも、退いてから進むという戦術を取るしかなかった。「奈々?」聡の声が、奈々の意識を現実へと引き戻した。我に返った奈々の目の前には、肩を握って心配そうに見つめる聡の姿があった。「一体どうしたんだ?瑛介と何を話した?」その問いに奈々は唇を引き結び、聡の手を振り払って黙り込んだ。皆の前で、自分が瑛介と「友達」だと認めさせられると教えるの?そんなこと絶対に言えない。友達の立場は、自分にもう少しチャンスが残されることを願ってのことだ。ただの友達になりたいなんて、そんなの本心じゃなかった。「僕と奈々の間には、何もないから」彼女が迷っている間に、瑛介は弥生の方を向き、真剣な顔でそう言った。奈々は目を見開き、その光景に言葉を失った。唇を噛みしめすぎて、今にも血が出そうだった。あの五年間、彼は何にも興味を持たなかったはずなのに、今は弥生に対してこんなにも必死に説明しているのは想像できなかった。弥生は眉をひそめた。もし最初の言葉だけだったなら聞き流せたかもしれない。だが、今となってはもう無視できなかった。瑛介はそのまま彼女の手首を掴み、まっすぐ彼女の目を見て言った。「信じてくれ。僕は五年前に彼女にはっきりと言ったんだ」二人の子供が顔を上げて、そのやり取りを興味深そうに見つめていた。そして、ひなのがぱちぱちと瞬きをしてから、陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、おじさんとママって、前から知り合いだったの?」陽平は口をキュッと結び、ひなのの手を取ってその場から引っ張った。ママの様子を見て、子供が関わるべきではないと悟ったのだろう。弥生は自分の手を見下ろし、それから瑛介を見て、手を振り払った。「それで?私に何の関係がある